教育委員リレーコラム

  

創造/創造する力が未来をひらく 鳥取を芸術教育先進県に

鳥取県教育委員会 委員 中島諒人

 

 私は演劇の舞台をつくることを仕事としています。「演出」というのが私の役割です。お芝居の台本(戯曲とも言います)をもとにして、それをどのようにお客さんに提示したらいいかを考え、俳優やスタッフといっしょに作品をまとめます。鳥取市鹿野町に廃校になった小学校の体育館と幼稚園があって、そこでお芝居をつくり、上演もしています。もう一つ仕事があって、それは劇場という場をつくることです。劇場とは、建物の名称ではありません。建物の中に、演劇を軸にしていろいろな創造的なアイデア、観客や作り手の思いが蓄積されて、段々と劇場に育っていくものです。私は、劇団のメンバーや地域の人たちとともに、その古い体育館等を劇場へと育てる仕事もしています。

 「どうして鳥取で劇場などやろうとするのか?」という問いをよくいただきます。その質問の中には二つの問いが隠されています。(1)鳥取のような田舎でなぜ芸術を?(2)なぜ演劇をやるのか?という二つです。
私は昨年10月から教育委員を務めております。「教育委員をやりませんか?」という打診をいただいた時、「演劇をやっている私に、一般の常識的な見方からすれば無茶なことばかりしている私に、なぜ教育委員なんてお堅い仕事を?」と戸惑いました。その戸惑いに対して自分なりに答えを持って、委員を引き受けました。その答えと、先の二つの質問への答えは、実はほぼ同じものなのです。

 鳥取の教育現場で、もっと芸術教育を充実させたい、鳥取県を芸術教育の日本で最も盛んな県にできたらと、私は思っています。芸術活動は、都会、主に東京などで行われるもの、それは一部趣味人のためのもの、地方に暮らす普通の生活をする人には無縁のものと、一般には思われています。このような考えが、私に対しても「鳥取のような田舎でなぜ芸術を?」という問いを生むのです。
 田舎だから芸術が必要なのです。田舎の子どもだからこそ、しっかりとした芸術教育を受けなければならないのです。問題の山積した未来を生きる子どもにこそ、芸術的な創造性が必要なのです。
 経済的な強者が、弱い者を徹底的に打ちのめして、富のほとんどすべてをさらっていくような社会になりつつあります。新自由主義のこの世界で、よりタフにより強く生きていかなければならないのは、地方に暮らす人間なのです。そうしなければ地方で暮らす人間は、巨大企業やアメリカや東京の決めたことに何もかも従うだけになってしまうのです。
 今まで地方は、大都市の下請けの立場で利益を得てきました。それがもはや成り立たなくなって来たのはご存知の通りです。芸術が与えてくれるのは、よく言われるような心の豊かさだけではないのです。芸術は、先の見えない時代を生きていくための有用な道具、武器にもなるのです。

 創造とは、人の真似をしないで自分で考えること、失敗を恐れないで勇気をもって行動すること、まだ見ぬ理想を求めて思考と試行を絶え間なく続けることです。例えば現在産業の世界で求められているのは、創造性の高いアイデアです。先行する商品の物まねではない独自の考え、デザイン等です。そういうものこそ、高い付加価値を生み、競争力を持ちます。芸術活動を支えるものこそ、その創造性です。芸術活動が身近にあること、芸術教育が高いレベルで行われることは、この創造性を涵養することにつながります。製造業だけでなく、農林業、漁業等でも、創造的なアイデアが求められているはずです。
 住民自治の必要性が高まっています。県や市のレベルあるいはもっと小さい町内会のようなレベルでも、それぞれの地域の実状に合わせて、独自のルールをつくり、町を変えていかなければなりません。そこで必要なのもやはり創造性です。自分たちに必要なものを見定めて、リスクも負いながら決定をし、生まれた結果に合わせて、またルールを対応させていく、絶えることのない挑戦のプロセスは、芸術行為に非常に近いものです。

 創造する力と合わせてもう一つ必要なのは、想像する力です。社会のメンバーが、同じ夢を見て同じ方向を目指すという時代は、日本ではとうに終りました。世界状況も多極化し、両立し得ない利害や理想の衝突がいくつもの大きな混乱を生んでいます。
 この100年間ほどの間、産業の発達を通じて主に先進国の人間が巨大な利益を得ました。その陰に積もりに積もった矛盾や問題が、一気に浮上して来ているのが現在です。環境の問題や貧富の格差、暴力や戦争の問題等です。私たちが直面している危機は、誰も経験したことのないものです。経験したことのある問題なら、知識だけでその解決が可能かもしれません。けれど、未知の危機に対処するには想像力が必要です。この想像は、頭だけでは不可能です。過去の経験からも学びながら、全身の感覚を動員して、体全部で考えなければなりません。

 現在の社会は、思考を頭だけの仕事にしてしまいました。文字や数字だけで考える、メールだけで、携帯電話だけで他人を理解する。本当にそんなことができるでしょうか。インターネットだけで世界や人間のことを理解することができるでしょうか。これからの社会は知識基盤社会になると言われます。確かにそうでしょう。しかし、人間は体をもった生き物で、知識の下には必ず体があるのだということを忘れてしまっては、知識だって生かされるはずもないのは当たり前のことです。
 身体、全身の感覚。芸術表現は、このことの大切さを深いところで前提としています。文字化したり数値化できたりする情報は、芸術表現の巨大な山のほんの一部でしかありません。「なぜ芸術教育なのか?」という問いへの答えのもう一つがここにあります。芸術はみるのにも、やるのにも全身を駆使しての想像力を必要とします。とりわけ演劇は、生身の人間が演じ、生身の人間がみるという形式が、体ということをとても強く意識させる表現で、だからこそ、現代において必要性が高い、というのが私の考えです。

 10年で社会は変わります。変わるというと自然の営みのようですが、もちろんそうではありません。私たち一人一人の力で変えることができるのです。いい方向を選ぶのも、悪い方向を選ぶのも私たち自身です。そのために最も影響力を持つのが教育だということに異論のある人はいないでしょう。私は芸術だけが大事だと言っているのではありません。他の学科ももちろん大切です。これからの世界を生きるために自然科学や社会科学の基礎的な知識は必須だし、語学や論理的思考も不可欠です。自分で考えるための基礎としてこれらをおろそかにすることはありえません。これらにあわせて、芸術が媒介する創造/想像力も、困難な時代を生き抜くためになくてはならないものだと思うのです。

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