事務職採用 前人事委員会事務局長 川本 晴彦さん

事務

退職職員のインタビューをお届けします。
鳥取県に入庁すると、どのような県職員生活を送っていくのでしょうか。 一例としてご参考になれば嬉しいです。

退職職員へのインタビュー(R5.3)

どのような部署をたどられたのかを伺いたいです。

 私は旧東伯町出身で、入庁1年目は倉吉土木事務所の用地課に配属になりました。係長と一緒に地権者さんを訪問し用地交渉などを行う業務でした。当時は土曜日(午前)も勤務日だったので、業務を終えて午後からは若手グループで麻雀やテニス、スキー、キャンプなどを楽しんでいました。2年目には、西部福祉事務所(3年勤務)に異動になりました。「母子・寡婦福祉資金」という母子家庭向けの融資や、生活保護のケースワーカーを担当しました。それまではケースワーカーはすべて福祉職の職員が担当だったんですが、採用方針の変更に伴い、事務職もケースワーカーを担当し出したタイミングでした。生活保護受給者の各家庭に訪問してお話を聞いたり、相談対応するような業務でした。生活保護を新規に申請するというお宅に訪問した時に、もう電気が止められるというタイミングで、電力会社に電話してギリギリのところで止められずに済んだこともありました。西部福祉事務所ではいろいろと現場の経験をさせてもらいました。今ではあまり考えられないですが、当時、西部事務所では昼休憩に職場の人と卓球をしたり、終業後に将棋を指したりしていました。

 その次に、本庁の道路課(1年勤務)に異動になりました。予算担当と管理担当のうち、管理担当となりました。業務としては道路法にかかる占有許可や形状変更などの許認可の業務でした。当時、上司から「本庁の担当者は県内で一番その業務に詳しい人だからな」と言われ、プレッシャーを感じたのを覚えています。

 その次に、地方課(現在の市町村課、4年勤務)に異動となり、「じげおこし」の交付金や基金などを担当しました。当時は金利が高くて基金の運用益が数千万円と出る中で、運用益を活用した新規事業を企画するよう指示がありました。職員みんなで夜9時に集合して協議したりして新規事業を考える中で、倉吉の福祉会館で「じげおこしシンポジウム」を開催することになりました。当時有名だったNHKの元アナウンサーの方が講演に来られることになりましたが、参加者がなかなか集まらず、課長席の前に立たされて叱られ、係全員で会場周辺のお宅に1軒1軒ビラ配りに行ったりして、なんとか多くの来場者に来ていただくことができました。

 また、選挙関係では、選挙の啓発のために県庁から鳥取駅前までパレードしたりとかなり大々的にアピールしていました。準備で休日勤務が続く中、土曜日に半日だけスキーに行こうといって、3~4人で氷ノ山に行ったんですが、頂上で板のビンディングが壊れ、歩いて降りるということもありましたね(笑)。
 また、財政担当として、市町村決算統計や検査などの業務をするなかで、市町村の担当者との繋がりができたり、ゴルフが上手い岡山県から派遣された職員と仕事したりと、様々な人との付き合いができました。

 その後、土木部管理課(現在の県土総務課、3年勤務)に異動になり、建設業の許可や入札などを担当しました。事務量が多いのでたまに土日出勤していたのですが、目が覚めて時間がたつとたいぎくなる(やる気がなくなる)ので、朝4時頃に出勤したりすることもありました。次に、教育委員会の生涯学習課(1年勤務)の係長になり、鳥取少年自然の家の閉所式などに携わりました。

 その次に、教育総務課(8年勤務)に異動になりました。企画調整係長、人事文書係長、教育企画室主幹、課長補佐となり、この間に議会対応や予算関係、人事、庶務などの一通りの流れがわかるようになりました

 あと、人事担当の時には、給与カットの財源で人員を増やすという「ニューディール事業」があり、図書館司書や文化財主事の採用を行いました。たくさんの土器を借りてきて講堂に並べたりしたことを覚えています。

 その後、鳥取環境大学に総務課長として4年間派遣されました。当時は公立大学になる前で学生の減少が続いており、どうやって大学を立て直していくかが、とても大きな課題でした。当時、高知工科大学が鳥取環境大学と同じように公設民営で始めて、後に公立化したら受験者が増えたんです。鳥取環境大学も公立化するしか生き残る道はないと思い、本課に働きかけるのですが、なかなか思うように進まず、公立化への壁はかなり大きかったです。民間経営者などをメンバーとする改革検討委員会を立ち上げたり、教職員全員会議を開いて「このままでは2年後には募集停止だ」と危機的な状況を説明したりと、もがいていました。そして4年目の秋頃、公立化への細い光が見えだし、環境大学でも給与・賞与カットを行ったりして頑張った結果、自分が本庁に戻って翌年くらいから本格的に公立化に向けた準備が進み、無事に公立化されました。

 その後、本庁に戻り人事企画課給与室長(3年勤務)となりました。当時のミッションは「時間外勤務を減らせ」という「スマート県庁Go・Goプロジェクト」H21年度の時間外勤務は県庁全体で38万時間これを2年で半減させる目標でした。会議は1時間に、とか1人あたりの時間外単価を貼り出したり、地方機関にも、なんとか時間外勤務を減らすようお願いをしました。
 そして、1年目の3月に東日本大震災が発生自分が応援職員派遣のとりまとめをすることとなりました。発災1週間後の土曜日午前中に部長から電話があり、「明日知事が宮城県知事に会って職員派遣の話をするから、火曜日から派遣できるように!」と指示があり、バス手配、人員、ルート検討など急ピッチで準備しました。なんとかかんとか第一陣を派遣したのですが、派遣された方から「派遣期間が短い」との声があり、バス移動中だった第三陣の派遣者の方々に派遣期間の延長をお願いしたり、派遣中にホテルでの休養日を設けたりと、走りながら考えるようなバタバタな日々でした。 派遣された職員の皆さんをはじめ、公用車の手配で無理を聞いてくださった当時の車庫長さんや、旅行代理店の方など多くの方々の協力で、何とか応援派遣を軌道に乗せることができました。
 また記憶に残っていることとして、当時、東日本大震災の関係で国家公務員の給与を臨時的に7.8%カットするので自治体も給与カットを、と総務省から強めのお達しがありました。鳥取県はすでに7.8%減の水準にあるんだと主張し、勇気を出して断りました。唯一鳥取県だけが給与カットをしなかったようで、その後、総務省から来られた職員の方には、このことは言われ続けてました(笑)。
 その後、人権同和対策課長(3年勤務)を勤めました毎年秋に拉致問題のシンポジウムを開催していて、職員発案で米子西高校の書道部に書道パフォーマンスをしてもらうことになりました。シンポジウム開催直前にNHKの学校対抗の番組に参加され良い成績をとられたようで、とても盛り上がりました。
 また、2年目の5月に「ストックホルム合意」があり、夕方帰宅後にNHKのニュースで知りました。帰宅してもうジャージに着替えてしまっていましたが、すぐにそのまま県庁にもどり、知事室に飛び込み、19時半からの記者会見にはジャージのまま立ち合いました。夏の終わりか秋頃には拉致被害者が帰ってこられる想定で空港での出迎えのシミュレーションなど、かなり準備をしていましたが、結局叶わずとても残念でした。

 その後、人事企画課長(3年勤務)となりました。4月の異動後すぐに熊本地震が発災し、応援職員の派遣をしました。秋には鳥取県中部地震が発災しました。当時、中部から通っていた課長補佐と給与室長に中部総合事務所に待機してもらい、現地のコントローラーとして支援物資のことなど差配してもらい大変助かりました。また、家屋被害の調査が大変な作業でした。たまたま倉吉市の人事課長が高校の同級生で、家屋被害がかなりの件数あり、調査するにしても場所も人手も不足しているとのこと。場所は中部総合事務所を使い、人手は関西広域からも応援に来てもらってなんとか被害調査が早急に進むよう、関係部局と共に倉吉市の支援に尽力しました。

 そのほか、「不妊治療休暇」を導入しました。職員組合からの要望や実際に苦労されている職員がいたこともありましたので、切実さを感じていました。ちょうど米子の産婦人科で不妊治療もされている病院の院長さんの講演を聞きにいったりしました。有給休暇では足りず突発的に休暇が必要になることもある、不妊治療の実情などを学び、不妊治療休暇の導入を進めました。

 その後、現職の人事委員会事務局4年目となります。改めて自分の経歴を振り返ると、なんていうか普通の歩みではなかったなぁと思います。

 

人事企画課時代に様々な地震の対応をされたということですが、地震は突発的かつ緊急性の高い判断を求められると思います。そのようなときに、ご自身の中で決断の指針のようなものがあるのでしょうか。

 中部地震の時はとにかくマンパワーが足りなくて、人を送り込まないといけないというのが一番でした。初動で遅れると取り返しがつかないので、とにかくすぐ動けるような対応をしないといけない。現地にいない自分に伺いを立てられても、現地の状況がわからないので、現地で判断できる人を置き、すぐに対応できるように意識しました。

 

人事企画課長の時に「不妊治療休暇」の導入をされたということですが、新しい制度を活用してもらうためにどのようなことをされましたか。

 あまりそこはできていなかったと思います。本当は、不妊治療に対する管理職の理解を進めることが必要でした。休暇を認める方が理解していないと当事者である職員とのコミュニケーションがうまくいかないこともあるので。そういう意味では作りっぱなしだったかな、とも思います。今の人事企画課では管理職の「不妊治療」への理解を進めるために研修会などをしていると思います。

 

一番印象に残っている部署や業務について、伺いたいです。

 やっぱり地震への対応ですね。県庁の中が「大変だ!なんとかしないと!」という県庁組織の一体感を感じました。今は当たり前のように感じていますが、西部地震の時に初めて災害対策本部をマスコミにオープンでやる形になりました。当時教育長の随行として後方に座っていましたが、各部から状況が報告され、その場で対応方針が決まっていくというライブ感を感じました。
 東日本大震災の時は、今から振り返ると無茶なことをやったと思います。実は私の出身大学が仙台にあり、当時家庭教師に通っていたおうちもみんな津波に飲み込まれてしまっていて。
 そういう想いもあって、やるしかないという気持ちだけで突っ走っていました。ただ、当時、匿名の方から電話がかかってきて、「原発も被災して危険な状態かもしれないのに、職員派遣して何かあったら責任取れるのか」と何度か言われました。当時は「こういう大変な状況だからこそ務めを果たすのが公務員ではないか」と答えていましたが、後で考えると、その方が言われていたことも正論だったな、と感じます。大きな事故やトラブルがなかったのでよかったですが。
 自分が成長させてもらえたという意味では、鳥取環境大学での業務です。もともと環境大学自体が様々なバックグラウンドを持つ人たちが集まっている組織なので、いかにコンセンサスを得て、目指す方向へと動かしていくかという貴重な経験をさせてもらいました。今の仕事にもその時の経験が活きていると感じます。

 

県職員になられたきっかけを教えてください。

 もともと新聞記者になりたいと考えていたのですが、そのために何か準備をしていたわけではなく、漠然となれたらいいな、くらいの思いでした。「敗れざる者たち」や「深夜特急」などの作者である沢木耕太郎みたいなルポルタージュ作家に憧れていました。結局大手新聞社には受からず、並行して民間企業の就活や県職員試験を受けたりしていました。 はっきりやりたいことがあるわけではなく、行き当たりばったりな感じで受けていました。親が帰ってこいというので、県庁に決めました。もともとマスコミ志望だったのも、より良い世の中にしたいという正義感的なものがあったので、公務員になって何か世の中に貢献できればいいな、という気持ちもありましたね。もし今、こんな中途半端な気持ちで採用試験を受けていたらたぶん合格していないと思います。

 

県職員を続けるうえで大切にしていたことはありますか。

 1つ目は「楽観的であること」です。仕事は自分が思うようにいくことが少ないので、そこで悩んだり悲しんでも仕方がない。全力で取り組んでいれば、まぁ何とかなるだろうという心構えでいる方が結果的にうまくいくように思います。これはあくまで心構えのことであって、仕事を楽観的なシナリオで進めればよいという意味ではないです。Bプラン、Cプランを準備することは必要です。
 2つ目は、「謙虚であること」です。例えば人事企画課長になると、突然県庁の人たちの態度がなんとなく丁寧になるんです(笑)。でもこれは「人事企画課長」という肩書に対するものであって、自分自身が立派になったわけではない。そこを勘違いしないように意識していました。仕事するうえで、役職の上下はあっても、人と人は対等な関係なので、管理職として仕事について厳しいことをいう場面はあるけど、人としては常に敬意をもって接するように努めてきたつもりですが、一緒に仕事した人の中には、「何言っとるだ」という方もおられるかもしれません(笑)。そこは私の未熟なところとしてお許しいただきたいと思います。
 3つ目は、「人とのつながり」です。私はあまり社交的ではないんですが、仕事を進めるうえで力になるのは、人の支えや協力。ちょっとした相談でも思わぬヒントが得られることがあります。深い関係でなくてもこの分野のことなら○○さんに聞いてみるか、ぐらいの関係を、仕事する中で築けるといいと思います。逆に、自分が相談されたら全力で応えることも意識していました。

 

入庁当時と現在の県庁との違いをどのように感じられますか。

 入庁当時は、課長はあまり仕事しないようなイメージで、課長はいいなぁ、みたいな感じでした(笑)。でも今自分がその世代になると、課長は大変(笑)。今は仕事の内容が全然違っていて、仕事のバリエーションが多いと思います当時は法律に則った業務、今はいかに地域を活性化させるか県庁に求められるものも違ってきているんだと思います

 

最後に、残った職員に伝えたいメッセージがあればお願いします。

 自分が入庁したとき(昭和60年)はまだ「ワープロ」も個人持ちで、パソコンでインターネットも使いながら皆が仕事するなんて想像もできない時代でした。県庁の仕事も許認可など法令に基づく事務が中心でした。当時は、少子化や格差拡大が社会の主要課題になるとは思いもしませんでした。戦争や大災害によるもの以外の社会の変化は、割と見過ごされてきて、どうにもならないような状況に陥ってから大騒ぎしているように感じます。
 若手の皆さんには、私たち世代が経験した教訓を活かして、10年後、20年後の社会がどうなるか、どうあるべきかを常に考えながら日々の業務に取り組んでいただけたらと思います

 

  

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