平成25年1月28、29日、東京の国文学研究資料館で史料調査を行いました。
今回は前・県史編さん室長である坂本委員と県史編さん室の渡邉専門員が出張しました。国文学研究資料館には、かつて日野郡内の町村役場が旧村より引継ぎ、その後不要文書として廃棄した資料が「鳥取県下町村役場引継文書」として保管されています。今回は、その中でも最も古い文書である元和4(1618)年の検地帳3冊(焼杉村、須釜村、舟越村)や、出雲街道の宿場であった二部宿で、農業以外にどのような職業の人々がいたかが分かる「日野郡二部宿余業人取調帳」(元治2年:1865)など、貴重な資料を閲覧しました。
かつて「鳥取藩成立期の検地と石高」という論文を発表された坂本委員には、検地帳に押されている印鑑や書き入れの内容などを詳細に調査していただきました。今回、調査に協力いただいた国文学研究資料館様に御礼申し上げます。
(写真1)資料調査中の坂本委員(左)と渡邉専門員(右)
(写真2)国文学研究資料館
県史編さん室
平成25年1月30日、近代・現代合同部会で米子市立山陰歴史館の資料調査を行いました。
今回は米子市立山陰歴史館の運営委員も務める岩佐委員と、教育・勧業等どんな分野にも詳しい田村委員が参加してくださいました。今回お二人が注目されたのは、明治時代の鳥取県の観光案内冊子です。県外の方に鳥取県を紹介するための冊子のようですが、鳥取県の地図や商店街のくわしいデータがついています。
田村委員は「明治時代の鳥取県の様子を伝えるいい資料です」と話しておられました。発見した岩佐委員も「米子市の球場がある所は、もとは監獄がありました。また、米子市役所の前の道路は今よりもっと狭かったです。自分の記憶の中の米子市と重なる所があります」とのことです。
今回で予定していた資料の調査が終わらなかったので、来週また米子市立山陰歴史館にお邪魔させていただくことになりました。米子市立山陰歴史館のみなさま、御協力ありがとうございました。来週もよろしくお願いします。
(写真1)米子市立山陰歴史館運営委員も務める岩佐委員
(写真2)田村委員
<
県史編さん室
12月12日(水)、民俗部会は後醍醐天皇伝説に関する民俗調査を実施しました。
今回調査したのは、大山町鈑戸(たたらど)にある王身代(おうしんだい)家です。王身代家の先祖は、糟谷(かすや)九郎左衛門という人物で、名和長年(なわながとし)の妹婿でした。その縁で、名和長年とともに1333(元弘3 / 正慶2)年の後醍醐天皇の隠岐島脱出と京への移動を影武者として助け、その功績から王身代という姓を賜ったと伝わる旧家です。
今回は、王身代家の由緒、行事、また鈑戸集落の両墓制について聞き取り調査を実施しました。
調査に御協力いただいた、王身代長光様に御礼申し上げます。
(写真1)雪に覆われた鈩戸集落付近
(写真2)王身代家の門
(写真3)王身代家の家紋。名和長年一族の証しである帆掛け船である
(写真4)王身代家の屋敷南側には後醍醐天皇が休んだという天皇屋敷と呼ばれる林がある
県史編さん室
12月20日、清水専門員が大山町の資料調査を行いました。今回、清水専門員が選んだ資料は以下の2点でした。
まずは、名和村への移住計画を記録した資料です。昭和5年のロンドン海軍軍縮条約の締結を受け、呉(くれ)海軍工廠(こうしょう)は人員整理が行われました。そして職員、家族は当時の名和村に移住することとなります。この移住計画の流れがわかる資料が見つかり、「新鳥取県史資料編の有力な掲載候補になります!」と清水専門員は熱く語っています。
次は、食糧増産のための大山山ろくの開拓計画を記録した資料です。今回の資料から、戦時中に満蒙開拓青少年義勇軍もこの計画に投入されていたことがわかりました。戦後は、「平和国家建設」とスローガンを変えながら、県もかかわっていきます。戦中から戦後にかけて大規模に進められた開拓計画の資料が見つかり、清水専門員に笑顔がこぼれます。資料ならびに会議室を提供してくださった大山町役場総務課の皆様に御礼申し上げます。
(写真1)資料調査中の清水専門員
(写真2)御来屋港と美しい日本海を見下ろすことができるすてきな会議室をお借りしての資料調査となりました
県史編さん室
12月21日、余井(よい)古墳鉄器実測の最終日を迎えました。協力いただいた渡瀬調査員とは今日でお別れとなります…。「こんなにたくさん実測することは大学ではないので、とても大変で、とても勉強になった一週間でした。」とのことです。
一週間、若い研究者の成長を手助けした湯村専門員は、「よかったら、来年も県史編さん室に勉強に来い!」と声をかけておられました。そしてそんな二人を岡村県史編さん室長があたたかく見守ります。
(写真1)絶対、実測を全部おわらせる!とがんばる渡瀬調査員
(写真2)渡瀬調査員(左)と声をかける湯村専門員(右)
そして二人を見守る岡村室長(奥)
県史編さん室
6回目の境港市史編さん室資料調査を12月13日に行いました。9月から始まったこの調査もなんと今回が(一応)最後です。
この日は3か月ぶりに石田委員が参加してくださいました。今回、石田委員の興味をひいたのは、戦後すぐの婦人会メンバー募集のチラシです。戦時中は一般市民に戦時体制を徹底させたり、戦争協力を呼びかけるのに利用された婦人会ですが、「戦後は民主主義の徹底に利用されているんだなあ。国の発想は変わってないんだなあ」との感想をお持ちでした。これから戦中戦後でメンバーは変わったのか、調べてみたいそうです。
前回に引き続きお忙しい中、時間をつくって岸本委員が参加してくださいました。岸本委員は、『戦時中の映画上映会のお知らせ』という文書が興味深かったそうです。「戦時中の映画は、他の時代には見られないようなものばかりです。もちろん戦争協力の呼びかけが目的の映画ですが、独特の魅力があるようです。やみつきになる人もいて、戦時中の映画に特化したデーターベースもあるくらいです」とのことでした。
最後の調査には西村委員も参加してくださいました。西村委員は戦時中の県と市町村の担当者の事務連絡つづりがおもしろかったそうです。兵事事務でどんなことが行われていたのか、具体的にわかる良い資料だそうです。
(写真1)本務は県立博物館学芸員の石田委員
(写真2)2回連続で参加してくださった岸本委員
(写真3)最後の調査に駆けつけてくださった西村委員
県史編さん室
平成24年11月27日、日南町が保管する近世文書の撮影を行いました。 史料が保管されている日南町郷土資料館です。廃校となった石見西小学校の建物が利用されています。
(写真1)文書が保管される日南町郷土資料館
今回撮影した史料の一部、嘉永3(1850)年の「日野郡神戸三ヶ村宗門御改帳」(写真2)です。神戸(かど)三ヶ村とは神戸村、飛時原(ひじはら)村、中野村で、現在の日南町神福地域です。宗門改帳とは、江戸時代にキリシタン統制の目的で作成された帳簿で、家ごとに檀那寺名、名前、年齢、続柄等が記されており、現在の戸籍のような性格を持っています。今回、調査に協力いただいた日南町教育委員会様に御礼申し上げます。
(写真2)日野郡神戸三ヶ村宗門御改帳
県史編さん室
平成24年10月20日(火)、 新鳥取県史編さん専門部会(民俗)は、倉吉博物館、横浜市歴史博物館と共同で鍛冶屋の神様である金屋子神(かなやこかみ)を調査しました。 調査したのは、かつて倉吉市鍛冶町で千歯扱きの鍛冶屋を営んでいた山崎家です。
金屋子神は、中国地方を中心に鍛冶屋で祀られる神様で、女性の神様とするところが多いですが、男性とする場合もあります。この金屋子神は山崎家が千歯鍛冶をしていた当時から、屋敷に祀られているそうです。幕末に倉吉地方で活躍した仏師作と思われますが、彩色も美しく、大切に祀られてきたことがわかります。また山崎家には、千歯扱き行商が営業のためにサンプルとして持ち歩いたという、千歯扱きのミニチュアも所蔵されています。倉吉の千歯扱きは行商によって全国に広がっていったとされますが、その様子を示す資料は乏しく、大変貴重な資料です。
この金屋子神と行商用ミニチュア千歯扱きは、来年1月26日から3月24日まで横浜市歴史博物館で千歯扱きに関する企画展で展示され、一般公開される予定です。関心がある方は、少し遠いですが横浜観光に合わせて御覧いただければと思います。今回御協力いただいた、山崎様に御礼申し上げます。
(写真1)金屋子神について聞き取り調査をする横浜市歴史博物館の刈田学芸員
(写真2)山崎家の金屋子神像。白狐に女神の金屋子神が乗っています
(写真3)手のひらサイズの行商用ミニチュア千歯扱き
県史編さん室
11月8日、再び境港市史編さん室資料調査です。今回は、約2ヶ月ぶりの参加となる岸本委員と、今のところ皆勤の岩佐委員が参加してくださいました。
岩佐委員が今回注目されたのは、終戦の翌年である昭和21年の郵便ハガキです。昭和21年の始め頃は、物の無い時代をあらわしてか、今では考えられないようなとても小さなハガキが使われていたようです。ところが昭和21年の終わり頃になると、今とそう変わらないサイズになっていきます。「日本の急速な回復力が目に見えるようです」とのコメントをいただきました。
岸本委員も第二次大戦後の資料に注目されたようです。「外江村の史料は、第二次大戦直後の村の変化が克明に記されている点だけでなく、逆に粛々と行政が継続していることも記されて興味深いものです」とのことでした。
(写真1)調査中の岩佐委員
(写真2)岸本委員
県史編さん室
平成24年10月29日から30日、 新鳥取県史編さん専門部会(民俗)では大山町宮内の高杉神社で4年に1度行われるうわなり神事を調査しました
この神事の起こりは高杉神社に次のように伝わっています。
- 雄略天皇丙辰(476)年、近郷で次々と災難が起こった。
- 託宣(神のお告げ)によって、孝霊天皇(紀元前342年~紀元前215年:『古事記』『日本書紀』に記される第7代天皇)に仕えた2人の官女「松姫命」と「千代姫命」の霊魂が、本妻である「細姫命」に対して嫉妬していることが原因とわかった。
- 3人の姫の社をつくって祀り、祭日には神事を行ったところ、災難は治まり幸せに生活することが出来る様になった 。
「うわなり」とは後妻のことです。室町時代から江戸時代にかけて、後妻打ち(うわなりうち)という民間習俗がありました。夫が後妻をめとったとき、先妻が親しい女たちにたのみ、使者を送って予告のうえで後妻の家を襲い、家財などを打ち荒らすというものです(参照:小学館『日本国語大辞典』)。うわなり神事は、この習俗が神事化したものと思われます。調査に御協力いただいた、高杉神社、宮内地区の皆様に御礼申し上げます。
【前夜祭1】年番で選ばれた3人の打神(うちがみ)が高杉神社で前夜祭に参加します。
【前夜祭2】宮司がくじ引きをします。
それによって本殿(もとどの)、仲殿(なかどの)、末殿(あとどの)が決まります。
【潮垢離(しおこり)1】祭当日の早朝、3人は神社に集合します。
【潮垢離2】宮司による神事の後、3人は福尾海岸に向けて出発します。
【潮垢離3】福尾海岸に着くと、身体を清め、塩草(海藻)を拾い藁苞(わらつと)につめます。
【潮垢離4】福尾海岸に末殿の御幣を立てて帰途につきます。
【潮垢離5】藁苞と塩草の様子
【潮垢離6】仲殿は、帰る途中に仁王堂の北端に御幣を立てます。
【潮垢離7】本殿は、高杉神社に戻ってから本殿北側に御幣を立てます。
【潮垢離8】塩草が入った藁苞を奉納すると潮垢離は終了です。
【潮垢離9】塩草の様子
【うわなり神事1】深夜11時に神社に集まった打神3人。
神事の後、宮司が御供(神饌)の飯を茅の箸で一口づつ食べさせると
打神に本殿、仲殿、末殿の神霊が憑依(ひょうい)するといいます。これを入座式といいます。
【うわなり神事2】入座式が終わると打神3人、御幣を持った氏子が神社前の小川に行き、
打神は冷水で禊(みそぎ)をします。これを水垢離(みずこり)といいます。
【うわなり神事3】打神3人が禊をする小川。禊の様子は撮影禁止になっています。
【うわなり神事4】水垢離が終わると一度、神社に戻り打神3人は待機します。
【うわなり神事5】打神3人は、神社境内に4本の竹と注連縄で設けられた神事場(じんじば)へ神幸行列します。
ここで、投げ盃式、打ち杖渡し式、打ち杖の締め直し、打ち合い式、成就式が行われます。
【うわなり神事6】打ち合い式に使用される打ち杖。
長いものを本殿、中を仲殿、短いものを末殿が使用します。
打ち合いといっても殴り合う訳で無く、打ち杖を利き手でない方に持たせ、打ち杖を打ち合わせます。
同時に斎主が「本殿の勝ち」と大声を掛けて勝負をつけます。この様子は現在、撮影禁止です。
【うわなり神事7】最後に打神3人は、氏子たちに御供の飯を御幣の紙に載せて配ります。
これでうわなり神事は終了します。
県史編さん室