日本遺産(Japan Heritage)」は地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するものです。
ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を,地域が主体となって総合的に整備・活用し,国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより,地域の活性化を図ることを目的としています。
日本遺産の詳細については、文化庁ホームページをご覧ください。
大山(だいせん)の山頂に現れた万物を救う地蔵菩薩への信仰は、平安時代末以降、牛馬のご加護を願う人々を大山寺に集めた。江戸時代には、大山寺に庇護され信仰に裏打ちされた全国唯一の「大山牛馬市」が隆盛を極め、明治時代には日本最大の牛馬市へと発展した。
西国諸国からの参詣者や牛馬で賑わった往来である大山道沿いには、今も往時を偲ぶ石畳道や宿場の町並み、所子に代表される農村景観、「大山おこわ」など独特の食文化、大山の水にまつわる「もひとり神事」などの行事、風習が残されている。
ここには、人々が日々「大山さんのおかげ」と感謝の念を捧げながら大山を仰ぎ見る暮らしが息づいている。
大山(だいせん)
大山(だいせん)は、『出雲国風土記』の国引き神話に「伯耆国(ほうきのくに)なる火神岳(ひのかみのたけ)」として登場する、文献にみえる日本最古の神山です。
山頂からの雄大な眺めは、大山の裾野に伸びる弓ヶ浜半島を引き綱にして能登から土地を引き寄せ、その綱を繋ぎとめた杭が大山だといういにしえの神話の世界をほうふつさせます。
写真:雲海に浮かぶ大山
中腹の大山寺(だいせんじ)に祀られる地蔵菩薩(じぞうぼさつ)は、山頂の池から現れたとされ、水を恵み、現世の苦しみから万物を救うと信じられた仏さまです。
このため、人々は延命をもたらす「利生水(りしょうすい)」と地蔵菩薩のご加護を求めて参詣し、五穀豊穣も祈願しました。
このように地蔵菩薩と水とが密接に結びついた大山独特の地蔵信仰が、鎌倉時代以降、「大山信仰」として伯耆のほか山陰、山陽諸国にまで信仰圏を広げて行きました。
写真:地蔵滝の泉と地蔵滝地蔵
地蔵菩薩が生きとし生けるものすべてを救う仏さまであることから、平安時代に大山寺の高僧、基好(きこう)上人が、牛馬安全を祈願する守り札を配るとともに、山の中腹に広がる牧野で牛馬の放牧も奨励しました。こうして大山の「牛馬信仰」が広まって行きました。平安時代の説話集『今昔物語集』からは、遠方からの参詣者が牛馬に供物・荷物を運搬させていたことがわかります。生計の柱である農耕に欠かせない牛馬の飼育でしたので、人々は牛馬を曳き連れて大山寺に参って守り札をいただき、牛馬にも「利生水」を飲ませてその延命を祈りました。さらに守り札は牛舎の柱に貼って安全を祈り続けました。
牛馬の育成に適した大山山麓の牧野で育った体格の良い放牧牛は参詣者の注意をひき、また、参詣者が曳き連れてきた牛馬もあって大山寺の春祭りなどに牛くらべ、馬くらべが開かれました。これが発端となって、鎌倉時代以降、次第に牛馬の交換や売買が盛んに行われ、やがて市に発展していったと伝わっています。
江戸時代中頃になると、大山寺が積極的に牛馬市の経営に乗り出し、市は大山寺境内の下にある「博労(ばくろう)座」で春祭りに開かれることになりました。この、寺の庇護のもとにという特徴が、信仰が育んだ全国唯一
の「大山牛馬市」とされる理由です。やがて祭日以外にも市が立ち始め、西日本各地から多くの人や牛馬が集まるようになり、やがて日本三大牛馬市のひとつと称されるほど隆盛を極めました。そのようすは、歌川広重の作と伝わる扇絵にもいきいきと描かれています。
写真:「博労座」牛馬市絵図(伝歌川広重)
また、その頃から売買が成立した祝い酒の場で歌われた「博労歌」にも「博労さんならここらが勝負、花の大山博労座、西の番所は備前か備中、東の番所は但馬の牛か、中は出雲か伯耆の国か、隠岐(おき)の国から牛積んだ船は淀江の浜に着く」と各地から市に集まる賑わい振りが謡われています。とくに足腰の強さで人気の高かった隠岐の牛が着くと、淀江の港には茶店が並び、見物人や牛を商う博労たちで活気に満ちました。
牛馬市は、大山寺の手を離れた明治維新以降も地域の経済を支え、明治中頃には年5回まで市が増えて、ついには年間1万頭以上の牛馬が商われる国内最大の牛馬市にまで発展しました。
写真:大山牛馬市(昭和6年)
一方で、明治政府が食用牛増産のため輸入雑種牛との交配を奨励したものの、交配牛の品質が不評だったことなどから、県内の牛の頭数は急激に減少し農家の生計を圧迫しました。これに危機感を抱いた鳥取県が優れた和牛を復活させようと、牛馬市で商われた県産牛を中心として、大正9年に全国に先駆けて登録事業を開始しました。
その後「大山牛馬市」は、鉄道の発達などの影響で昭和12年の春にその幕を閉じますが、登録事業はその後も和牛(肉牛)の品種改良に大いに活用されて、今、世界が注目する「和牛」誕生へのいしずえとなりました。
中世以来、大山を西国諸国に広く及ぶ大山信仰圏と牛馬流通圏の中心に位置づけ、その往来を支えたのが大山寺から放射状にのびる「大山道(だいせんみち)」(坊領道(ぼうりょうみち)、尾高道(おだかみち)、溝口道(みぞぐちみち)、丸山道(まるやまみち)、横手道(よこてみち)、川床道(かわどこみち))です。
春祭りと牛馬市の日の前後は、国境の番所での通行人改めも特別なはからいがされたほど、多くの人々が往来しました。このため、大山道沿いの村々には博労宿や参詣者の宿も相次いででき、大いに繁盛しました。
写真:坊領道沿いの所子地区の町
横手道沿いで博労宿が軒を連ねた下蚊屋(さがりかや)や御机(みつくえ)の街道筋には往時の面影が、また、坊領道沿いの集落では各家で仔牛生産をした家屋の配置や牛繋ぎ石などが今も残っています。とりわけ、所子(ところご)の農家では、牛が母屋と同じ屋敷地の中に建てられた厩(うまや)で飼われ、大山の山頂で汲まれた霊水や摘まれた薬草を仔牛に含ませるなど、牛馬市に出す牛を大切に育てていた当時のようすをよくとどめています。
また、横手道には山陽筋からの途中で参詣が困難となった人が大山を望んで拝むための鳥居や、女人禁制の時代に女性が拝礼する場所だった「文殊堂」、川床道には苔(こけ)むした石畳道、各道の道端には地蔵菩薩にちなむ一町地蔵などが残っています。川床道にある一息坂(ひといきざか)峠では、江戸時代中頃に地元の人が、春祭りに参詣する人々にふるまい始めた湯茶や精進料理の接待が、いまも代々続けられています。
参詣者の携帯食として親しまれた食が「大山おこわ」です。
写真:大山おこわ
山の幸に恵まれた大山山麓では、ワラビ等の山菜やタケノコ、栗といった具材と餅米を混ぜて蒸したおこわが祝い膳には必ず出されました。そのおいしさと餅米ならではの日持ちと腹持ちのよさから、いつしかそのおにぎりが大山参詣の携帯食として喜ばれるようになったのです。
また、基好上人が栽培を奨励したと伝わる蕎麦を挽いた「大山そば」も牛馬市でふるまわれ、市の隆盛とともに大山の名物となっていきました。
この「大山おこわ」「大山そば」は今も大山を代表する味覚として親しまれています。
写真:大山そば
「大山信仰」に由来する水にゆかりある行事として、山中の池から水を汲み清めとする「もひとり神事」や「はまなんご神事」、たる酒を池に注ぎ、その水を汲んで持ち帰って田に流す雨乞い祈願などが今も続いています。
写真:もひとり神事
また、五穀豊穣を祈る風習として、田植え前に大神山神社(おおがみやまじんじゃ)奥宮で豊作を祈る「山入れ」の行事や、伯耆やその周辺諸国の田植唄で謡われる「大山歌」などもあります。
写真:大神山神社奥宮
伯耆では、子どもは数えで2歳が厄年と言われ、親が背負って大山寺に初参りする「二つ児詣り」や数え13歳で無病息災を祈る「十三詣り」があり、大山土産の飴を持ち帰って村人に配りました。山陽筋からは、縁者を失った人がはるばる大山寺を訪ね、地蔵菩薩の救いを願って賽(さい)の河原(かわら)で供養しました。これらも「大山信仰」に由来する習俗です。
このように、水の恵みに延命を求める地蔵信仰に由来する「大山信仰」と「牛馬信仰」は、牛馬市の隆盛も手伝って西日本に大きな信仰圏を形成しました。それは、あたかも大山からの天恵の水が伏流水となったがごとく、長い歳月を経て人々の生活文化の中に沁みわたり、静かに根付いたものです。
そして、とりわけ裾野に暮らす人々は「大山さんのおかげ」と日々感謝しつつ大山を仰ぎ見続けているのです。
写真:大山道(横手道)と一町地蔵