第42回県史だより

目次

中部山間部の民俗調査から:三朝町における山野の草木利用

 平成21年9月7日から10日までの4日間、中部山間部の民俗を調査委員が共同で調査しました。調査対象になった三朝町、倉吉市関金町の方々の御協力により、多くの伝承資料を収集することができました。この場にて御礼申し上げます。その調査で得られたことの一部を紹介します。

 かつては畑の野菜のほか山野に生育する草木を食料にしました。民俗調査では食に関する調査も実施していますが、三朝町ではどのような山野草を食料にしていたか、長年、三朝町で中学校の教員を勤め、現在は三朝町文化財保護調査委員である森本満喜夫(もりもと まきお)先生からお話を伺いました。

三朝町で食用とする山野草

 三朝町では春に、ワラビ、フキノトウ、ウド、タキナ(ウワバミソウ)、ミヤマイラクサ、サンショウの芽、チシマザサ(現地名ネマガリダケ及びスズノコ)、リョウブの芽や各種キイチゴを食したそうです。ミヤマイラクサは葉を茹でて和え物にして食べ、リョウブの芽は茹でて飯とまぜてリョウボメシ(令法飯)にしたそうです。リョウボメシは長野県、木曽御嶽山(きそおんたけさん)の行者の食料として知られていますが、鳥取県内では春の風物詩として記憶に留めている古老が多くいます。

 夏にはマタタビの実、サンショウの実、トチの実、サルナシの実、ミョウガなどがあり、マタタビは果実を漬けて食し、サルナシはとても美味しくそのまま食べることも多かったそうです。トチの実は現在では栃餅として三朝の名物の一つになっています。

トチの実を干す風景の写真
トチの実を干す
平成21年10月三朝町坂本で撮影
三朝名物の栃餅の写真
三朝名物の栃もち

 秋にはクリ、アケビ(ミツバアケビ・アケビ)、ナツハゼ(現地名:ヤマナスビ)の実、ヤマボウシの実などを食したそうです。

 またヨモギに関しては1年中草もち、天ぷらにして食べたといいます。

三朝町のお茶について

 今回の調査ではお茶について興味深いお話がありました。現在ではお茶といえば、茶葉を煎じた緑茶を第一に思い浮かべると思いますが、三朝町内ではかつて自生の植物を煎じて飲むことが多かったそうです。

 たとえばチマキザサのお茶はかなり一般的で、新芽を火であぶりお茶にしたといいます。胃腸を強くする薬草であるゲンノショウコも三朝町でよく飲まれたお茶です。開墾地など裸地に多く生えるカワラケツメイ(現地名不明)は、葉や実をお茶にすると大変美味だったといい、アキグミなどもお茶にしました。

三朝町内のチマキザサの写真
三朝町内のチマキザサ
平成21年10月三朝町三徳にて撮影

 このお茶に関しては森本先生が気付いたことがあるそうです。三朝町内では古いお茶の木が少なく、三徳地区千軒原(せんげんばら)に少し見られた程度といいます。千軒原が三徳山三佛寺のお膝元であることから、これは門前茶屋で商用とされたか、あるいは僧侶等が飲用にしたもので、庶民はチマキザサなどの野草をお茶にしていた時代が長いのかもしれないとのことでした。

おわりに

 お話を伺った森本先生は、三朝町で生まれ育った方ではありませんが、理科の教員として三朝町の人々の暮らしに注意深く目を向け、三朝町の植生を熟知し、食料とする山野の草木を現地名と学術名を照合しながら記憶されるすばらしい観察者です。そして教員退職後もその知識を生かし社会教育に貢献されています。このような方は地域にとって貴重な財産であり、そのような方との出会いは民俗調査にとって大きな収穫となります。

 今後は、森本先生から御教授いただきながら、山野からの食料採集が当然であったころを記憶する地元の古老から、身の回りの自然に対しての知識、山野の草木利用の変化について、さらに聞き取り調査を実施したいと考えています。

 今回は食に関する部分をお知らせしましたが、山野の草木は薬草や、農具など民具の材料ともなる草木についても伺いましたので、それについては次の機会にご紹介します。

(樫村賢二)

室長コラム(その35):鳥取藩士と温泉

 秋も深まってくると、温泉が恋しくなってくる。鳥取県内にも数多くの温泉があり、中には古い歴史を持つ温泉場もある。現在解読を進めている「家老日記」の中にも、藩主やその子供が温泉に行く記事や、藩士が湯治のために休暇を願い出る記事が数多く見られる。

 藩主が入る温泉は、藩内に3か所あった。岩美町の岩井温泉、鳥取市の吉岡温泉、鳥取市気高町の勝見温泉で、そこには藩主専用の「御茶屋」が設置されていた。岩井・吉岡は現在も鳥取県を代表する温泉地に数えられ、現在、勝見は廃絶しているものの、近隣の浜村が温泉地として続いている。藩主が温泉に出かけるのは、勿論病気の治療などの健康上の理由もあろうが、温泉周辺を見回ることで、庶民生活の実情を知るという理由もあったのだろう。

 一方、藩士たちが温泉に行くのは、もっぱら病気治療が理由だった。湯治に行くことは、しばらくの間鳥取を留守にすることであり、必ず家老の許可を受けなければならなかった。そのため、「家老日記」の中には、藩士の入湯願が数多く見られるわけだ。当時の湯治方法は、7日間を「一廻り」と言い、これを2・3回繰り返していたようだ。藩士の多くは、「三廻り」つまり21日間とその前後の移動期間の休暇を願っている。入湯先は、先の3か所の温泉の他に、三朝町の三朝温泉や鳥取市河原町の湯谷温泉があった。また、有馬温泉・城崎温泉など領外の有名な温泉地へ湯治に行くこともあった。病気治療とはいえ、3週間の休暇が許されるのは、うらやましい気がしないでもない。

 ところで、幕末に活躍した鳥取藩士に、堀庄次郎という人物がいる。彼は、御儒者(儒学をもって藩主に仕える者)の家に生まれ、18歳の時から病気の父に代わって藩校尚徳館で儒学を講義した秀才で、さらに、最後の藩主池田慶徳の信任を得て、尚徳館の改革をはじめ、藩政改革や国事周旋に携わった。尚徳館で彼の指導を受けた若い藩士は、鳥取藩の尊王攘夷派に成長し、藩政に大きな影響を与えた。しかし、禁門の変(蛤御門の変)の後、長州藩への態度をめぐって、藩論が大きく分かれた時、元治元(1864)年9月、長州出兵を可とした堀庄次郎は、若い尊王攘夷派2人によって暗殺される。この暗殺事件以後、藩主池田慶徳は、病気を理由に国政への積極的な関与を行わなくなり、大藩鳥取藩は政治史の中心からはずれていく。堀庄次郎の死は、その後の鳥取藩の動きを大きく変える大事件だった。

 その堀庄次郎が19歳の時、嘉永元(1848)年3月15日に、湯谷温泉へ「三廻り」の湯治を願い出ている記事が「家老日記」に見える。鳥取から湯谷温泉への道は、この地域有数の豪農木下家(鳥取市河原町布袋)・上田家(同袋河原)のある村を通る。この二家は、共に郡の大庄屋を勤める家柄で、後に堀らの進める藩政改革に協力し、農兵の取立てに尽力するなど、藩政と深く関わった。後に活躍する彼らが、この湯治の道中、あるいは21日間の逗留中に、面識を持った可能性は、かなり高いのではないか。若き儒学者と改革意識を持つ農村指導者が、この時に意気投合したのではないか。そんなことを想像させる記事だ。その推測は私の勝手な妄想かもしれないが、いずれにしても、藩士の湯治は、ふだん鳥取の町にいては会えない人と出会える機会ではあったろう。ああ、私も温泉に行きたい。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2009(平成21)年9月

2日
資料調査(県埋蔵文化財センター、湯村)。
5日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
6日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
7日
講師派遣(米子工業高等専門学校、大川)。
共同民俗調査(~10日、三朝町・倉吉市関金町、樫村)。
8日
古郡家1号墳測量調査(鳥取市古郡家、湯村)。
16日
中世史料調査(~19日、山口県美祢市・萩市、岡村)。
17日
古郡家1号墳測量調査(鳥取市古郡家、湯村)。
民俗調査協議及び民具調査(三朝町・倉吉市関金町・鳥取市佐治町、樫村)。
18日
古郡家1号墳測量調査(鳥取市古郡家、湯村)。
20日
古郡家1号墳測量調査(鳥取市古郡家、湯村)。
24日
資料調査(米子市尚徳公民館、西村・足田)。
資料調査(倉吉市小鴨神社、坂本・樫村)。
25日
古郡家1号墳測量調査(~26日、鳥取市古郡家、湯村)。
30日
古代中世部会に関する協議(鳥取大学、岡村)。

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編集後記

 県史編さん室の窓から見えるケヤキの葉も色づき秋も深まりつつあります。県史編さん室ではこの「県史だより」のほか、毎年新鳥取県史シンポジウムを開催し県民の皆様にその成果を伝えています。今年は12月5日(土)に、「明治期鳥取の再発見~『鳥取県史料』を読む~」をテーマに、とりぎん文化会館第2会議室で開催します。ぜひ御参加ください。

(樫村)

  

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