第82回県史だより

目次

写真が語る終戦前後の米子市

はじめに

 各地に残る古い写真は、さまざまな歴史を私たちに語ってくれます。米子市立山陰歴史館を調査した時、新鳥取県史編さん調査委員の岩佐武彦氏(米子市在住)が、古い写真をもとにさまざまなことを教えてくださいました。今回は岩佐委員に提供していただいた写真をもとに、そこからわかる終戦前後の米子市を紹介したいと思います。

1枚の写真から

写真1
写真 幼少期の岩佐委員(向かって右側)

 写真の右側の背の高い少年が岩佐委員です。撮影場所は、旧米子市役所の向かいにあった岩佐写真機店の前です。撮影時期は、はっきりしませんがおそらく終戦前と思われます。

 写真の上部中央の白い建物に御注目ください。レトロできれいな建物が写っています。これらは今の米子市にはありません。いつ、なぜ、なくなってしまったのでしょうか。

建物強制疎開とは

 実はこれらの建物は、国の建物強制疎開(「建物疎開」とも「強制疎開」とも呼ばれます。)政策により太平洋戦争中に失われました。疎開というと、空襲を避けるために行われた学童疎開が有名ですが、実は建物の疎開もありました。木造住宅の多かった日本では、焼夷弾を落とされるとあっという間に火が燃え広がってしまいます。そこで建物を壊し、延焼を防ぐようにしたのが建物強制疎開です。

本県における建物強制疎開計画

 鳥取県では1945(昭和20)年7月10日に、鳥取市と米子市の重要施設の周囲の建物を撤去するよう、命令が出されます。下記の表のとおり、建物強制疎開地区が定められました(注1)

表 鳥取県の建物強制疎開地区(昭和20年7月10日段階)

表
※上記表中の備考欄で鳥取市は東品治町、米子市は中町が2か所建物強制疎開地域に指定されていた。
(鳥取県史近代第五巻資料篇839頁より引用)

 これを受け、米子市では7月14日から取り壊しが始まりました。この時重要施設に指定されたのが、米子駅・日曹第1・第2工場・市役所・中国配電米子支店・電話交換局・三井物産米子出張所・大阪鉄道局後藤工機部です。行政機関や大きな工場等が重要施設に指定され、その周辺の建物が壊されていきました。

 8月に入っても取り壊しは続けられ、終戦の直前の8月14日まで多くの建物が失われていきました(注2)。建物強制疎開は、柱に太い綱をかけ、数十人で引っ張って取り壊したようです(注3)。この頃、働き盛りの男性の大半は戦地にいました。そのため、こうした力仕事も残された高齢者や女性からなる労務報国会、国民義勇隊等が行いました(注4)。全国民が戦争に協力しなければならない時代だったのです。こうして米子市内だけで約700棟もの建物が取り壊されたと言われています。

 一方で、取り壊しに対する救済措置はあったようです。昭和20年7月13日に「鳥取縣建物疎開事業損失補償委員会規定」というものが定められ、建物強制疎開による損失補償について話し合うことが決められました(注5)。しかし補償の具体的な内容や、本当に実行されたかどうかは残念ながらわかりません。

米子市中町の事例

 岩佐委員の御実家である岩佐写真機店は、重要施設に指定された米子市役所の向かい(米子市中町)にありました。表からもわかるとおり、中町は建物強制疎開地区に指定されています。そのため取り壊しが決定し、引っ越しの準備を進めていたそうです。この時6歳だった岩佐少年は、米子の町に建物を倒す大きな音が響き渡り、次々空白が生まれていく様を目の当たりにします。そしてついに2軒先の家まで壊されたところで終戦を迎えたそうです。

不明な点のある建物強制疎開

 上記の建物強制疎開地区の表を見てみると、鳥取市と米子市のみがあがっています。中部地区は取り壊しをしなくてもよかったのでしょうか。実は、重要施設の延焼を防ぐ、という目的から人口3万人以上の都市の市街地のみが建物強制疎開対象となっていました。そのため、まだ市になっていなかった倉吉地区は対象にならなかったのです。しかし、昭和20年7月17日、「建築物利用統制規則」が鳥取県から出されます(注6)。この中で東伯郡倉吉町が建物強制疎開の指定を受けました(注7)。こうして終戦までに鳥取市408棟、米子市772棟、倉吉町280棟が取り壊されたと言われています(注8)

 しかし何棟の建物が取り壊されたかは、資料によってばらつきがあり、正確な数字はわかりません。例えば米子市の場合、『鳥取県史』では米子772となっている一方で(注9)、『新修米子市史』では米子692となっています。この『新修米子市史』の中でも『資料編』は総計691(ただし検算すると692)ですが(注10)、『通史編』では総計692(ただし検算すると690)とあり(注11)、約700としか言えない状況です(注12)。終戦間際の1~2カ月という短い期間に、実に多くの建物が失われた建物強制疎開ですが、実態はよくわかっていないのが現状です。これから引き続き調査を続けたいと思います。

おわりに

 古い写真を発見しても、説明が書かれてないといつの何の写真かわかりません。ところが歴史の専門家がよく見ると、実にいろいろなことを教えてくれる重要な資料になります。1枚の写真にも資料としてのさまざまな可能性が秘められているのです。

(注1)昭和20年7月10日付鳥取県告示第263号

(注2)『新修米子市史第三巻通史編近代』(米子市、2007年)74頁。

(注3)『子と孫に伝えたいふるさとの終戦秘話』(ふるさとの終戦秘話を語る会、2004年)46頁。

(注4)『新修米子市史第三巻通史編近代』(米子市、2007年)75頁。

(注5)昭和20年7月13日付鳥取県告示第266号

(注6)昭和20年7月17日付鳥取県令第26号

(注7)昭和20年8月7日付鳥取県告示第290号

(注8)『鳥取県史近代第二巻政治篇』(鳥取県、1969年)633頁。

(注9)『鳥取県史近代第二巻政治篇』(鳥取県、1969年)633頁。

(注10)『新修米子市史第十巻資料編近代』(米子市、2005年)195頁。

(注11)『新修米子市史第三巻通史編近代』(米子市、2007年)75頁。

(注12)『新修米子市史』は『米子市三十周年史』(米子市、1959年)423頁の表に拠っているが、この表の合計は691となっている。ただし正確には692の誤りである。

参考文献

岩佐武彦「太平洋戦争下 連合国軍の米子地方空襲について‐米国戦略爆撃調査団報告(USSBS)他より‐」『伯耆文化研究』第12号(伯耆文化研究会、2010年)。

『鳥取県史近代第五巻資料篇』鳥取県、1967年。

(岡 梓)

活動日誌:2013(平成25)年1月

7日
資料調査(~9日、東京国立博物館、湯村)。
9日
刊行物に関する協議(鳥取大学、清水・岡)。
12日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、渡邉)。
13日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
15日
資料調査に係る協議(南部町教育委員会、湯村)。
17日
資料(倉吉千刃)調査(倉吉博物館、樫村)。
22日
資料借用準備(鳥取県教育文化財団、湯村)。
24日
古墳現地確認(湯梨浜町、湯村)。
史料返却(南部町、渡邉)。
資料調査(米子市上後藤、樫村)。
28日
資料調査(~29日、国文学研究資料館、渡邉)。
資料調査(大山町、清水)。
30日
資料調査(米子市立山陰歴史館、岡)。
31日
遺物返却(鳥取市用瀬町歴史民俗資料館、湯村)。
資料返却(湯梨浜町泊、樫村)。

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編集後記

 今回は始めて県史だよりの執筆を担当することになりました。担当することになったものの、何を書いたらいいのかわからない、と困っていたところ、県史編さん室の民俗担当専門員に「だったら編さん委員に聞いてみたらいい」とアドバイスをもらいました。そこで岩佐委員にお聞きすると、建物強制疎開というテーマと写真を提供してくださいました。そして県史編さん室の現代担当専門員とともにいろいろ文献にあたって調べ、今回の原稿となりました。

 職場の協力は大切、とよく言われます。今回の県史だよりもまさに職場の協力あってのものとなりました。建物強制疎開だけでなく、仕事は一人でするものでなく職場全体でするもの、ということも学ぶ機会となりました。建物強制疎開は、まだまだ解明されていないことの多いテーマです。今回の調査を機に、これからも調べてみたいと思います。

(岡)

  

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