第108回県史だより

目次

鳥取城をめぐる武田・山名の戦いと毛利元就

はじめに

 このたび古代中世部会では『新鳥取県史資料編 古代中世1 古文書編』(以下『古文書編』と略す)を刊行しました。この中には、県内はもとより全国各地に所在する中世以前の因幡・伯耆関係の古文書約2400点を収録しています。

 本書に収録された古文書の中には、今回初めて活字化されたものも多く、それらは新たな歴史像を我々に示してくれます。また各地に残されている断片的な古文書を1冊に集成し、時代順に配列したことで、個々の古文書を相互に関連づけることができるとともに、それらの文書が出された時代的背景や当時の様相をより具体的に探ることができます。

 今回は、この『古文書編』に収録されている史料をもとに、これまであまり知られていなかった鳥取城をめぐる歴史の新たな一面に迫ってみたいと思います。

鳥取城をめぐる武田・山名の戦い

 因幡平野が一望できる標高263mの鳥取城は、16世紀中頃までに山城としての原形ができあがり、天正元年(1573)に山名豊国が布施天神山城(鳥取市湖山町)から同城に本拠を移した後、因幡国の政治の中心地になったと言われています。

 その後、戦争の大規模化が進む中で徐々に整備され、戦国末期には「日本を代表する名山」と評されるまでになりました(注1)。天正8年(1580)には羽柴秀吉が「市場山下家共」を残らず焼き払ったとあることから(注2)、この頃には城下に多くの家々や市場が立ち並んでいたと思われます。

 鳥取城をめぐる戦いといえば、天正9年(1581)の羽柴秀吉のいわゆる「兵糧攻め」が有名ですが、それまでにも何度か大きな戦いの舞台となっています。しかし、天正9年の兵糧攻めに比べて、そのほかの戦いについてはあまり知られていません。

 ここでは、兵糧攻めの20年ほど前、永禄6~7年(1563~64)に鳥取城をめぐって繰り広げられた武田氏と山名氏の戦いを取り上げてみたいと思います。


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鳥取城遠景

(1)武田高信の台頭(永禄6年)

 16世紀中頃の因幡国は、守護所である布施天神山城を中心に、守護山名豊数が支配を行っていました。当時、鳥取城はその出城として位置づけられ、山名重臣の武田高信が守備していました。

 永禄5年(1562)、安芸国の毛利元就が大軍を率いて尼子氏の本拠地である出雲国に攻め込みました。これにより山陰地域の軍事的緊張が一気に高まります。毛利氏は尼子氏の本拠地である富田(とだ)城(島根県安来市)の北西に位置する洗合(あらわい)城(同県松江市)に着陣するとともに、周辺諸国の武将を出雲国へ動員し、尼子氏を圧迫しました。このとき鳥取城の武田高信も毛利勢の一員として出雲国へ進軍しています(注3)

 しかし、尼子勢も反撃し、翌6年には出雲国の白鹿(しらが)城(同県松江市)や西伯耆の河岡城(米子市河岡)、尾高城(同市尾高)で激しい攻防戦が展開されました。その後も出雲・伯耆の国境付近では数々の戦いが繰り広げられていきます。

 この頃、因幡国においても大きな動きがありました。永禄6年春、武田高信が鳥取城を拠点に主君である山名豊数に反旗を翻したのです。これに対し、豊数は重臣の中村伊豆守を派遣して鳥取城を攻撃しますが、湯所(鳥取市湯所)の戦いで中村が戦死するなど(注4)、山名勢は徐々に劣勢に追い込まれていきます。

 同年12月、高信は豊数の本拠地である布施天神山城を攻撃しました。この戦いで天神山城は陥落し、豊数は鹿野(同市鹿野)へ逃れていきます。翌7年(1564)7月には、毛利氏と伯耆国人の連合軍が鹿野城を攻撃しました(注5)。この戦いは毛利側の勝利に終わり、豊数は歴史の舞台から姿を消していきます。

 こうして布施天神山城を中心とした守護山名氏の時代は終わりを告げ、以後、因幡国は鳥取城を中心とする新たな時代を迎えていくのです。

(2)但馬山名氏の鳥取城攻撃(永禄7年)

 永禄7年8月、高信を打倒するため、山名一族の惣領である但馬守護の山名祐豊が軍勢を率いて因幡国へ攻め込んできました。祐豊軍は私部(きさいち)城(八頭町市場)を経由して、千代川の西側に位置する徳吉(鳥取市徳吉)に陣を構えました(注6)。このとき私部毛利氏をはじめとする因幡国の山間部の領主たちも祐豊に味方していたと思われます。

 9月1日、武田軍と山名軍は鳥取城下で激しい戦闘を繰り広げました。祐豊は重臣の太田垣輝延らの軍勢を鳥取城下へ派遣して高信を攻撃しました。『古文書編』に収録している「秋山茂氏所蔵文書」や「山本文書」には、このとき輝延が戦功を賞して家臣に与えた感状が残されています(注7)

 この戦いは武田軍の勝利に終わりました。毛利方の史料によれば、山名軍は数十人が討ち取られたとあります(注8)

毛利元就による和平工作

 この鳥取城下の攻防戦の知らせは、出雲在陣中の毛利元就にも届けられました。

 これを受け、元就はすぐに武田・山名双方へ使者を派遣し、両者の和睦へ向けた動きを積極的に進めていきます。

 当時、元就が「富田城の西側(毛利本陣)と東側(西伯耆)とで行(てだて:軍事行動)を密に申し合わせて攻撃することが肝要である」と述べているように(注9)、富田城の包囲網を形成する上で、富田城東側に位置する西伯耆を押さえることは重要でした。しかし、永禄7年8月には日野郡江尾の蜂塚氏を中心とする日野衆が毛利氏に反旗を翻すなど、伯耆国内は未だ不安定な状態でした。伯耆や因幡はかつて尼子勢力下にあった国でもあり、元就にとって、この時期に伯耆国や因幡国が混乱に陥ることは何としても避けたかったものと思われます。

 そのため、元就は積極的に和平工作に乗り出します。今回、『古文書編』に収録した「譜録(渡辺三郎左衛門直)」や「久芳家文書」には、このときの元就の因幡国での和平工作の様子を具体的に示す史料が残されています。以下、これらをもとに、毛利方の動きについてみていきたいと思います。

 武田・山名両軍が鳥取城下で戦ったとの知らせを受けた元就は、その2日後、すぐに配下の渡辺房を因幡国へ派遣しました。このとき元就は渡辺に対して「まず鳥取城へ行き、武田高信の言い分をよく聞いた上で、但州(山名祐豊)の陣へも出向き、調停を図るように」と命じています(注10)。特に「何よりも但州・此方(毛利)の事について、相違なきよう調えることが肝要である」と述べているように、当時、元就にとって、山陰東部に大きな勢力を持つ山名祐豊との対立は何としても避けなければなりませんでした。そのため渡辺房や田尻徳満を通じて祐豊との交渉を迅速かつ慎重に進めていきます(注11)

 一方で、元就は、鳥取城の高信に対しても、家臣の久芳(くば)賢直や小寺元武を派遣して交渉を進めていきました。このとき元就は「我々の指南に任せれば、但州(山名氏)のことは穏便に収めるが、(高信が)自分たちに同心しなければもう二度と言うことはないと伝えよ」と強い姿勢を示して自分たちの意見に従うよう求めています(注12)

 このように、元就は、久芳・小寺・渡辺らを通じて、武田・山名それぞれと停戦に向けた交渉を進めていきました。結果的にこの交渉は成功を収め、同年9月末頃には両者の和睦が実現して、祐豊は但馬国へ引き上げていきます。

 こうして因幡国内の大きな危機を乗り越えた元就は、同国に派遣していた毛利方の武将たちを呼び戻し(注13)、同8年に富田城を総攻撃します。そして翌9年に富田城は落城し、尼子氏を倒した毛利元就はやがて中国地方に覇権を唱えていくのです。

おわりに

 今回は、これまであまり取り上げられてこなかった永禄年間の鳥取城をめぐる武田・山名の戦いと毛利元就の活動について紹介しました。

 永禄6~7年の山陰地域は、出雲国や西伯耆において毛利氏と尼子氏の激しい戦いが繰り広げられましたが、この時期、因幡国においても、鳥取城を舞台に武田氏と山名氏の戦いが展開されていました。これに対し、元就は双方に使者を派遣して積極的に和平工作を進め、早期に国内の混乱を鎮めることに成功しました。あるいはこれが大きな動乱に発展していたら、毛利氏の尼子攻めはまた違った展開になっていたかも知れません。

 毛利氏の因幡支配については、これから解明されるべき大きなテーマの1つですが、この時期に毛利元就が主導する形で武田・山名という二大勢力の停戦を実現し、国内の混乱を鎮静化させたことは、その後の毛利氏の因幡支配にも影響を与えたのではないかと思われます。

 今回紹介した「譜録」所収文書や「秋山茂氏所蔵文書」は、いずれも『古文書編』で初めて活字化された文書です。このように『古文書編』には因幡・伯耆の中世以前の歴史を繙(ひもと)く上で興味深い内容を持つ史料が数多く収録されています。本書が多くの方に利用され、地域の歴史を明らかにする一助となることを願ってやみません。


(注1)(天正9年)3月20日吉川経家書状(『新鳥取県史史料編 古代中世1 古文書編』県外文書編1344号。以下「県外1344号」と略す。)

(注2)天正8年6月19日羽柴秀吉書状写(県外1227号)。

(注3)(永禄5年)9月18日毛利元就・同隆元連署書状(県外681号)。

(注4)永禄6年4月5日山名豊数感状(県外690号)。

(注5)永禄7年8月2日毛利元就感状(県外755号)。

(注6)(永禄7年)8月3日武田高信書状(県外760号)、(永禄7年)9月3日毛利元就書状(県外767号)。

(注7)永禄7年9月10日太田垣輝延感状(県外769号、同771号)。

(注8)(永禄7年)9月15日毛利元就・吉川元春・小早川隆景連署書状写(県外773号)。

(注9)(永禄7年)2月3日毛利元就書状(県外736号、同737号)。

(注10)(永禄7年)9月15日毛利元就・吉川元春・小早川隆景連署書状写(県外773号)。

(注11)(永禄7年)9月28日毛利元就書状案写(県外782号)。

(注12)(永禄7年)9月28日毛利元就書状(県外781号)。

(注13)(永禄7年)10月19日毛利元就・吉川元春・小早川隆景連署書状写(県外783号)、(永禄7年)11月2日毛利元就書状(県外787号)。

(岡村吉彦)

活動日誌:2015(平成27)年3月

1日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
民具調査(千歯扱き)(福島県立博物館、樫村)。
2日
軍事編資料検討会(公文書館会議室)。
3日
史料調査(鳥取大学附属図書館、渡邉・青目)。
4日
銅鐸計測の協議等(鳥取県立博物館、湯村)。
史料調査(鳥取大学附属図書館、渡邉)。
5日
史料調査(智頭町中央公民館、渡邉)。
資料調査(淀江白鳳の丘展示館、湯村)。
資料調査(~6日、東京大学史料編纂所、前田)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(鳥取県立博物館、渡邉)。
現代部会資料調査(公文書館会議室、西村)。
資料調査(いわき市内、前田)。
補足民俗調査(~11日、鳥取県西部等、樫村)。
8日
資料調査(福島県立歴史資料館、前田)。
10日
資料調査(鳥取市埋蔵文化財センター、湯村)。
11日
資料調査(鳥取市埋蔵文化財センター秋里分室、湯村)。
史料調査(鳥取市個人宅、渡邉)。
12日
遺物借用、返却(鳥取県立博物館、湯村)。
銅鐸調査の交渉(湯梨浜町個人宅、湯村)。
資料編変更契約の協議等(鳥取市埋蔵文化財センター、湯村)。
資料調査(~13日、国会図書館、西村)。
13日
フォーラム事前協議(埋蔵文化財センター青谷調査室、樫村)。
14日
青谷上寺地遺跡フォーラム(鳥取市青谷町総合事務所多目的ホール、樫村)。
15日
18日
銅鐸調査の協議(鳥取県立博物館・倉吉博物館、湯村)。
県史編さん事業にかかる協議(倉吉西高等学校、岡村)。
19日
資料調査(上淀白鳳の丘展示館、湯村)。
「古記録編」編さんにかかる協議(公文書館会議室、岡村)。
23日
銅鐸調査の協議(琴浦町教育委員会、湯村)。
近世部会(公文書館会議室)。
鳥取軍政部関係資料調査(~25日、国立公文書館・国会図書館、西村)。
25日
銅鐸調査の協議(湯梨浜町教育委員会、湯村)。
民具調査成果品納品及び協議(北栄町教育委員会、樫村)。
31日
史料調査(智頭町中央公民館、渡邉)。

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編集後記

  今回の記事は、新刊である『新鳥取県史資料編 古代中世1 古文書編』(以下『古文書編』)に掲載された史料から見える戦国時代、鳥取城をめぐる攻防についてです。これまで鳥取県関係の古代中世文書で博物館や個人などに収蔵されており、史料集などで活字にされてこなかった史料が、この『古文書編』の刊行によって容易にその内容を確認できることになりました。『新鳥取県史資料編』は各都道府県立図書館などに収蔵されているほか、個人への頒布もしていますので、ご利用いただき、今回の「県史だより」の記事のように鳥取県に関わる歴史研究がより推進されることを希望しています。

(樫村)

  

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