第30回県史だより

目次

県東部海岸部の盆行事の調査から

 平成20年度、民俗部会では県東部海岸部を調査しており、8月に岩美町陸上、青谷町夏泊の2か所の盆行事の調査を実施しました。

岩美町陸上の墓踊り

 現在、陸上のお盆は8月13日から16日で、墓踊りは8月14日に行われています。墓踊りは初盆を迎える家の墓地で行われる盆踊りの一種です。かつては15日に陸上の臨海院で寺踊りが行われましたが近年は実施されていません。

 踊りは青年団が前身の陸友会という組織が中心となり、初盆の家と連絡し墓の位置などを確認し、当日は日没後、7時半くらいに陸上集落の一番西側にある初盆の墓から墓踊りを開始します。

初盆の墓で墓踊りをする人々の写真
初盆の墓で墓踊りをする人々

 歌い手は上手な人が務め、太鼓たたきは陸友会が、踊り手に資格などはなく誰でも参加できます。たくさんの花が捧げられた初盆の墓を中心に円陣を組み踊ります。名は墓踊りで新盆を迎える故人の供養をするものですが、重苦しい雰囲気はなく集落の老若男女が集い楽しくにこやかな表情の人が多いのが印象的です。

 1箇所で20分くらい踊ると終了ですが、踊りを捧げてもらった新盆の家の主人が、うれしそうに感謝しながら礼を述べます。家族を亡くし間もない悲しい初盆ですが、集落の多くの人々が故人のために集い踊り、楽しいひと時を過ごしてくれることが最高の供養と考えているようです。

 今年は初盆の家が6戸あり、午後7時半から9時半まで墓踊りが行われました。

夏泊の精霊流し

 鳥取市青谷町青谷の一部、夏泊地区のお盆は8月13日から16日です。精霊流しは、お盆の最終日、16日早朝に行われます。平成20年度は夏泊の船大工が製作した木造の精霊舟(しゃあらぶね)は3艘でした。木造の立派な精霊舟は初盆の家が流すものですが、3艘のうちの1艘は昨年が初盆で、今年も故人の供養のために精霊船を流したとのことでした。精霊舟は漁船で夏泊沖数百メートルの岸から見える位置に流され、夏泊の人々に見送られます。

皆が順に精霊舟に向かい手を合わせる様子の写真
皆が順に精霊舟に向かい手を合わせる

 初盆ではない家は盆棚に飾られた花で舟を作り供物をのせて流します。かつては麦藁やオガラ(注1)などで舟を作ったようですが、麦を作る家がなくなり、オガラもあまり使用されないようです。

 夏泊だけではなく、青谷地区全体や隣接する気高町八束水地区でもかつては精霊舟を流したといいますが、今はなくなったそうです。

 今回の調査は夏泊の精霊送りの様子を観察し、写真記録を作成することが中心でしたが今後、行事の詳細については聞き取り調査を実施する予定です。

生き続け変化する盆行事

 高度経済成長以後、さまざまな行事や言い伝えなどが失われ、急激に変化し、その状況が危惧され続けています。

 陸上の墓踊りも若者や子どもが減少しており、鳥取市の中心地区で行われる「鳥取しゃんしゃん祭」が墓踊りと同じ日になったときには、若者は賑やかな鳥取市にみな行ってしまい存続の危機を迎えたそうです。

 夏泊の精霊送りもかつては地区の行事として行ってきましたが、近年はさまざまな価値観をもつ人が多くなり、今は個人の任意で行っているそうです。

 このような状況を聞くと危機が迫っているようですが、実際に今回、調査したとき受けたイメージはそのようなものではありませんでした。

 老若男女が皆、楽しそうに踊る墓踊りは、かつてほどの賑わいがなくても、世を去って間もない故人のために集まり踊って慰め、それに対して心から感謝する故人の家族の姿には長く続く死者への弔いとその考えが継承され続けています。

老若男女が楽しそうに踊る様子の写真
現在でも老若男女が楽しそうに踊る

 また故人のために製作した精霊船が沖に流れていく姿をいつまでも見送る家族、地区の人々の姿からは世を去った家族、知人と別れを受け入れるための重要な儀礼であることが伝わってきます。

精霊舟を見送る初盆の家族の写真
精霊舟を見送る初盆の家族

 この盆行事調査を通じて、姿や状況が多少変化しても、その行事に込められた地域の人々の考え、思いは変わらず伝えられていることも多く、また伝えていこうとする志をもった人がまだまだいるということが改めて確認できました。

 これからの調査でもこのような伝統行事の記録化を通じて、そのような地域を応援していきたいと感じました。

(注1)苧殻・麻幹。麻の皮を剥いた茎のこと。

(樫村賢二)

室長コラム(その24):直訴は罪になるか?

 ペリー来航の年、嘉永6(1853)年12月に、因幡国八上郡長瀬村(現鳥取市河原町)の伊三郎という百姓が、大口左源太という鳥取藩士に借金の返済を求めて、現在の警察に当たる御目付の宅に直訴した。その経緯が、翌年の鳥取藩「家老日記」の中に残されている。 訴えの内容は、以下のようなものだ。

大口家は、20数年前、左源太の親佐一左衛門の時代に家計が破綻し、その再建を行うため、給所(領地)である長瀬村に「在郷入(ざいごういり)」し、伊三郎が大口家の暮らし向きの大半を世話してきた。その後、左源太の代になり、大口家は鳥取に戻ったが、長瀬村時代に伊三郎が立て替えていた大口家の借金は、銀札20貫目余りにのぼり、毎年米10俵を利息分として支払う約束をしていたが、その支払いも次第に滞るようになった。伊三郎が左源太に掛け合っても、取り合ってくれず、そこで、藩の在方役所に訴えたり、仲介人を立てて新たな返済計画の約束を行ったが、また支払いが行われなくなったので、元金とこの間の利子を左源太に払ってほしい。

 鳥取藩の武士は、基本的には鳥取の町に住んでいたが、都市の生活はお金がかかり、武士の家計は疲弊していた。そこで、家計の破綻した武士は、農村部に住んで、支出を抑えようとした。おそらく、都市では武士同士の付き合いや奉公人の給料など、避けられない支出が多かったのだろう。体面上は良くないが、やむをえず「在郷入」する例は珍しくない。

  「在郷入」の場所は、この事例のように、自身の給所の村が多かったと思われる。鳥取藩では、地方(じかた)知行制が明治維新まで残り、武士と村の間で、普段から年貢の納入をはじめ、様々な関係があった。給所の村では、武士への窓口となる「株庄屋」という役職があったが、長瀬村の伊三郎も、大口家の株庄屋だった。その関係から、在郷入した大口家の面倒を見たのだろう。

 伊三郎が大口家に対して立て替えていた銀札20貫目は、銀札(藩札)が額面どおりに通用しているとすると、現在の貨幣価値では約1億円に相当し(銀60匁=金1両、金1両=約30万円。ただし、銀札は実際には額面より低い価値で流通している。)、かなりの金額である。直訴するのも当然だろう。

 さて、この直訴の結果だが、大口家は藩から咎められ、謹慎の処罰を受け、同時に、伊三郎に対して、出来るだけ返済するよう命じられている。直訴した伊三郎への咎めはなかったようだ。正当な理由のある直訴は、罪にはならなかったのである。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2008(平成20)年9月

5日
中世石造物調査(大山町、岡村)
6日
新鳥取県史シンポジウム開催(倉吉未来中心小ホール)。
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
11日
中世史料調査(~13日、姫路市・神戸市、岡村)。
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)
18日
資料調査(米子市山陰歴史館、西村・足田)。
民具資料見学会(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
25日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
30日
史跡鳥取藩主池田家墓所保存整備検討委員会(池田家墓所他、坂本)。

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編集後記

 今回で「県史だより」も第30回の節目を迎えました。毎月の発行ですので月末になると執筆、編集もバタバタすることもあります。しかし県史編さんの活動や状況、ちょっとした発見を記録化し、広報するための重要なものですし、調査で収集した資料などを途中経過としてまとめるいい機会になっています。これからも県史編さん室の動きに注目していただけたらと思います。さて第29回では、坂本室長の長文掲載をしましたが、今回からまた「室長コラム」の連載再開です。これからも鳥取藩「家老日記」にある興味深い事件などを紹介していくと思いますので、こちらにもご注目ください。

(樫村)

  

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