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土地買収工作を行った郷土部隊(松江歩兵63連隊)

 現代部会ではいま、鳥取県史ブックレット7『満蒙開拓と鳥取県』の編集作業が大詰めをむかえています。古今東西、農地は農民にとって命の次に大切なものですが、満州移民を成功させるためには入植先の土地の確保が最重要課題でした。満州移民の初期段階、この土地買収工作に深く関与したのが鳥取県の郷土部隊の1つである松江歩兵63連隊でした。(注1)

第10師団の満州駐箚~関東軍としての郷土部隊~

 1931(昭和6)年9月の満州事変をきっかけに日本は満州(中国東北地方)への侵略を始めます。満州事変は、関東州(中国・山海関の東を指す地域)の防備と南満州鉄道の保護を担当した旧日本陸軍の部隊「関東軍」の謀略により行われました。関東軍といえば、「精強無比」「無敵70万」といわれた精鋭部隊という印象がありますが、これは日中戦争開始後の一時期のことで、満州事変当時の関東軍は、内地から2年交代で駐箚(ちゅうさつ)(注2)する2個師団と独立守備隊6大隊とからなる兵力わずか1万の組織にすぎませんでしたが、事変後その規模を急速に拡大していきます。

 そして、まさにこの満州事変後の緊張した時期に満州駐箚の任にあたったのが鳥取県を師管区とする第10師団で、1931年12月に一部が出動、翌32年に師団主力が渡満。主に吉林省内で軍閥や反満抗日運動の掃討戦を行うなどし、34年5月帰国までの2年余にわたり関東軍として軍事行為を行いました。

土地買収工作を行った63連隊

 1932(昭和7)年の満州国建国などを契機として、国内の疲弊した農村救済と対ソ連防衛を目的とした満州移民が試験的に始まります。初期の移民は機関銃や迫撃砲で武装した在郷軍人で、移民用地は現地住民の私有地(既耕地)でした 。(注3)日本人は現地中国人農民の抵抗勢力を「匪賊(ひぞく)」とよびましたが、日本人移民は現地住民から「屯匪(とんび)」と呼ばれていました。

 1934年、吉林省内の開拓用地の土地取得を促進するため、買収工作を関東軍が主導することとなります。第10師団司令部内に参謀長を委員長とする農地買収委員会が組織され、飯塚朝吾松江歩兵63連隊長(大佐)を実行委員長とする班は120万町歩の土地買収を担当しました 。(注4)買収方法は、「県ノ要人」らに師団長や県長が趣旨を十分説得するというものでしたが、手順簡略化のため各地主から委任状と白紙委任状をとるなど、関東軍という武力を後ろ盾とする強制的な買収だったのは明らかで、同時に農民の武装解除も断行されました。

土龍山事件と飯塚連隊長の死

 こうした強引な土地買収工作に対して現地農民の抵抗は一層強くなっていきました。1934(昭和9)年3月9日、三江省依蘭県土龍山地方(現黒竜江省)の農民約3,000人が、謝文東をリーダーとして蜂起します(土龍山事件)。翌10日、63連隊はこれを鎮圧に向かいますが、飯塚連隊長以下17名が戦死。うち鳥取県出身者9名も犠牲になりました 。(注5)後日連隊長の敵討ちとして行われた戦闘でも戦死者21名(うち鳥取県出身者11名)・負傷者53名の大被害を受けました 。(注6)師団帰還予定の5月を目前にして起きた悲劇的な事件でした。土龍山事件は、土地買収に対する地元農民の抵抗力の強さを改めて浮き彫りにしました。事件以後、関東軍は買収工作の前面から後退し、満州国政府を開拓政策に関与させる方針へと転換します。

飯塚連隊長の戦死を伝える昭和9年3月14日付「因伯時報」記事の写真
飯塚連隊長の戦死を伝える昭和9年3月14日付「因伯時報」記事
東伯郡出身者の村葬を伝える昭和9年4月16日付「因伯時報」記事の写真
戦死者の村葬を伝える昭和9年4月16日付「因伯時報」

おわりに

 土龍山事件で戦死した鳥取県出身兵士らが無言の帰還を果たすと、村では盛大な村葬が営まれました。1934年5月の師団凱旋時には満州での2年間に戦死した飯塚連隊長以下187柱の英霊を讃え、松江城二の丸広場において1万人以上が参列する大慰霊祭が挙行されました。(注7)

 満州事変以後、「満州は日本の生命線」、満州の日本権益は日清・日露戦争以来の「父祖の血によって」得られたものであると盛んに宣伝されるようになりますが、県民にとっての満州とは、こうしたスローガン以上に、郷土部隊の派遣を通じてより一層身近なものとして感じられていたのではないでしょうか。1936年以後展開する国策としての満州移民政策が県民に容易に受け入れる背景には、そうした距離感の近さも手伝ったと思われます。

(注1)満州事変当時の鳥取県内の徴兵区は2分していて、千代川を境に気高郡以西の出身兵は松江歩兵63連隊(松江市古志原)に、鳥取市以東の出身兵は鳥取歩兵40連隊(鳥取市岩倉)に入営した。

(注2)任務のために外国に相当の期間滞在すること。

(注3)劉含発「日本人満洲移民用地の獲得と現地中国人の強制移住」(『アジア経済』XLIV-4、2003年)

(注4)「密山依蘭農地買収計画概要 極秘 東亜勧業株式会社 昭和九年二月十日」、「日本人移民適地吉林省東北部土地買収経過ノ件 極秘 満鉄総務部長」(『満鉄与移民(分巻1)6』、遼寧省档案館編、広西師範大学出版社、2003年)

(注5)『因伯時報』昭和9年3月14日付

(注6)『因伯時報』昭和9年3月24日付

(注7)『因伯時報』昭和9年5月25日付

(参考文献)

喜多一雄『満洲開拓論』(明文堂、1944年)

山田豪一「満州における反満抗日運動と農業移民(上)」(『歴史評論』142号、1962年)

歩兵第六十三聯隊史編纂委員会『歩兵第六十三聯隊史』(1974年)

小都晶子「日本人移民政策と『満洲国』政府の制度的対応」(『アジア経済』XLVII-4、2006年)

 

(西村芳将)

最近の活動から:鳥取市佐治町総合支所にて資料調査を実施

 2010(平成22)年8月26日(木)と27日(金)、鳥取市佐治町総合支所にて近代部会と現代部会が合同で資料調査を実施しました。

 同支所には、佐治村時代(~平成16年)および口佐治村・中佐治村・上佐治村の三村時代(~明治39年)の旧役場文書が多数保管されています。戦前の行政資料の所蔵としては県内屈指のものでしょう。

資料閲覧の様子の写真
資料閲覧の様子
資料撮影の様子の写真
資料撮影の様子

 今回の2日間の調査では、各委員で手分けして所蔵資料を閲覧、『新鳥取県史 資料編』の収録候補となるものを選別して撮影させていただきました。

(大川篤志)

活動日誌:2010(平成22)年8月

1日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
民俗調査(大山町赤松、樫村)。
2日
史料調査(湯梨浜町宇野、坂本)。
3日
史料調査(倉吉博物館、坂本)。
5日
近代部会資料調査(県立公文書館)。
古墳測量地権者交渉(鳥取市久末、坂本・湯村)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
12日
民俗(両墓制)調査(大山町前谷、樫村)。
17日
中世史料調査(~20日、東京大学史料編纂所・国立歴史民俗博物館、岡村)。
古墳測量協議(鳥取市桜谷、坂本・湯村)。
18日
史料調査(三朝町穴鴨、坂本)。
古墳測量協議(鳥取市面影、湯村)。
民俗調査(湯梨浜町。北栄町、樫村)。
20日
民俗調査(湯梨浜町。北栄町、樫村)。
23日
近世部会資料調査(県立公文書館)。
24日
古墳測量協議(鳥取市桜谷、湯村)。
25日
資料調査(~27日、智頭町誌編さん室・鳥取市佐治町総合支所、大川)。
28日
古墳測量地元交渉(鳥取市桜谷、坂本・湯村)。
30日
民俗部会共同調査(~9月2日、湯梨浜町・北栄町)。
31日
鳥取城跡発掘調査定例検討会(鳥取市埋蔵文化財センター、湯村)。

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編集後記

 先月、今月の「最近の活動から」でお伝えしたとおり、県史編さんに係る調査は猛暑の中でも様々実施していますが、いつも空調設備のある場所での調査というわけではなく、今回紹介した鳥取市佐治町での調査も、暑い建物の中で厳しいものだったそうです。

 しかし9月下旬に入り、先日まで続いた猛暑が嘘のように、涼しく読書の秋らしくなりました。涼しい読書の秋には、鳥取県の歴史に関する本を探して読んでみてはいかがでしょうか。

(樫村)

  

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