第65回県史だより

目次

明治時代の勧業雑誌にみる藺莚業

勧業雑誌と地方産業

 近代産業史の重要な資料に、勧業雑誌(かんぎょうざっし)があります。農家・商工業者へ実業上有益な情報を提供するため、県や実業団体が発行した雑誌のことです。鳥取県でも、明治10年代以降、県内務部や県中央勧業会・県農会などが数誌を発行しました。記事の内容は、農作物・工業製品の試作結果、県内外の景況、講習会や視察のレポートなど、多岐にわたります。本来は実用目的の雑誌ですが、今となれば、当時の産業の状況を知るよい歴史資料なのです。

 例えば、明治以降に県経済の大きな地位を占めるようになっていく養蚕業や製糸業については、関連記事が毎号のように収録されており、勧業雑誌の情報が新しい地方産業の普及に寄与したであろうことを窺えます。

 一方で、結果的に主たる地方産業には育たなかった多くの産業についても、当時、様々な振興策が模索されていたことも、誌面は伝えてくれます。今回は、そうしたあまり注目されることのない産業のなかから、明治時代の藺莚(いえん)業を採り上げてご紹介しようと思います。

藺莚業とは?

 藺莚業とは藺草(いぐさ)の茎を織って敷物を作る産業で、主な製品には畳表(たたみおもて)・茣蓙(ござ)・花莚(はなむしろ)の三種があります(注1)。このうち畳表と茣蓙については説明不要でしょうが、最後の花莚は若い方にとって耳慣れない言葉かもしれません。大雑把にいえば、様々な模様が施された茣蓙のことです。

明治時代の藺莚業―概観

 藺莚業は、もちろん近代以前から日本にありましたが、明治時代に入って畳表と花莚を中心に独特な展開を見せました(注2)。前者は国内市場、後者は海外市場に結び付いて、です。

 畳は日本家屋の象徴みたいなものですが、明治以前の庶民の住居では、藁など別素材の莚が多く使われていました。鳥取県に関する記録では、例えば、かなり時代を下った1899(明治32)年の岩美郡について「畳等ヲ敷ケルハ単ニ富豪家ニ限ル」と伝える資料があります(注3)。また4年後の気高郡湖山村(現鳥取市)の資料は、維新以後に「莚席は茣蓙に、茣蓙は畳と」替わっていったと記しています(注4)。高価だった畳表の消費と生産は、地域差を伴いながら、国内の所得水準の向上につれて伸びていったのです。

 他方、明治初期に著しい技術発展を遂げた花莚は、日本の主要輸出品の一つとなりました。主に、アメリカ南部の低所得者層がカーペットの代用品として購入したのです。ただ、その最盛期は短く、明治の終わり頃には輸出も減少へ向かいました。

 藺莚業の主産地となったのは岡山・広島・福岡・大分などの県です。とくに花莚製造は岡山県に集中しました。

鳥取県の藺莚業

 鳥取でも古くから藺莚業は行われましたが、旧藩時代から比較的盛んだったのは旧八東郡大御門(おおみかど)村(現八頭町)や旧久米郡上北条(かみほうじょう)村(現倉吉市)などに限られたようです(注5)。県全体の生産としては、明治時代に始まった行政による統計調査のデータによって見ても、全国でもっとも少ない県の一つでした(注6)

 明治前期の推移については裏付けとなる資料が十分に残されていませんが、藺草の収穫量などから考えると、県内での畳表・茣蓙の生産量は増加の傾向にあったようです。ただし、ひろく特産物として県外へ販売されたり、県内需要を十分に満たすほどではありませんでした。下表は、1888(明治21)年を対象とした生産・移出入の調査報告から藺莚製品の記載を抜粋したものですが、とくに畳表の場合、県内生産の倍以上の量を県外から購入していました。

表「鳥取県の藺莚生産・移出入:1888(明治21)年」

 明治後期になると『鳥取県統計書』のなかに毎年の生産量のデータが残っています。それによると、茣蓙は明治30年代、畳表も(年々の変動が大きいものの)明治の末頃には生産が減少傾向へ転じています。花莚については、明治時代に製造されたことを伝える記述資料はあるものの(注7)、統計資料には生産量がまったく記録されていないので、製造されたとしてもごくわずかだったでしょう。

 県の主要産業とならなかった藺莚業ですが、その導入や普及へ向けた試みがなかったわけではありません。勧業雑誌の記事から、一つの例を見てみましょう。

本庄村での試み

 1896(明治29)年11月発行の『鳥取県中央勧業会会報』は、岩美郡本庄(ほんじょう)村(現岩美町)の村長、吉岡義造が藺草栽培と藺莚製造を試みた経緯を紹介しています(注8)。その概略は、ざっと次のとおりです。

 もともと畳表製造に関心を持っていた吉岡の建議により、1895(明治28)年、岩美郡役所が藺草の試験栽培をすることになりました。冬になると、吉岡自身も藺莚業の先進地である岡山県を訪ね、県庁や綾莚(りょうえん)合資会社などを視察します。同社は、都宇(つう)郡茶屋(ちゃや)町(現倉敷市)にあった、岡山でも最大規模の花莚製造会社です(注9)。当時、同地は輸出向け花莚の製造でにぎわっており、畳表のことは話題にもならなかったといいますが、ともかくも吉岡は藺草の苗を購入して帰県、試作を始めます。

 翌年3月、吉岡は伝習生3名を綾莚合資会社へ派遣し、藺草の染色法や織り方を学ばせます。試作した藺草も品質良好で、事業拡張を考えるのですが、この頃に「華莚業恐慌と云ふ有様に陥りたる」状況となったため(注10)、当初の考えどおり畳表製造を始めることにします。その後は、伝習生を順次呼び戻す一方、再び視察を岡山・広島で行い、織機も購入して製造の拡大を図りました。

 と、ここまでが記事の伝えるところです。

 ほぼ同じ頃、農商務省農事試験場山陽支場長の新庄三郎が鳥取県を訪れ、藺莚業に関する講演を行っています(注11)。そのなかで新庄は、外国の需要に左右されて盛衰がある花莚製造は「余程充分考へてからに立派に遣るやうにしなけれは充分の利益はない」ので、農家副業には向かない、という趣旨のことを述べています。「農閑の余業」としての畳表製造に関心を持っていたという吉岡も、岡山県で花莚製造の活況と不況を見て、同じことを思ったのでしょう。本庄村での記事以後の顛末は不明ですが、畳表製造は小規模ながら農家副業としての地域の収入源の役割を担ったようです。

終わりに

 勧業雑誌によると、明治時代に鳥取県で藺莚業の普及を模索したのは、吉岡だけではありませんでした。例えば東伯郡では、1897(明治30)年頃、やはり岡山県に郡書記を派遣して、同地の藺莚業の景況や技術を詳しく報告させています(注12)。そのほか、先の新庄による講演の筆記や、岡山県をはじめとする県外の藺莚業界に関する情報が、勧業雑誌の誌面に何度も載せられています。

 こうした試みにもかかわらず、前述のとおり、少なくとも長期的には、鳥取県の藺莚生産が増進したということはありません。しかし、養蚕・製糸業のように顕著な発展を見せた産業の一方、こうした試行錯誤が様々な産業について行われたことも、県の近代産業史の興味深い一面でしょう。

(注1)「花莚」は「かえん」とも読み、「花蓆」や「莞莚」などの字が当てられることや、「花茣蓙(はなござ)」と呼ばれることもあります。

(注2)以下、日本の藺莚業全般については、神立春樹『近代藺莚業の展開』(御茶の水書房,2000年)を参照。

(注3)『鳥取県岩美郡生産力調査書(明治三十二年調)』8丁。同資料については第2回「県史だより」を参照。

(注4)『鳥取県気高郡湖山村々是調査』(湖山村農会,1903年)5頁。

(注5)渡邊信平「藺席及ヒ琉球蓆之来歴併ニ栽培方法」(『鳥取県勧業雑報』第13号,鳥取県,1889年)、『鳥取県勧業沿革』(鳥取県,1900年)134~135頁、『鳥取県産業案内』(鳥取県,1912年)115~116頁など。

(注6)神立前掲書第1章第7表、付表I、第2章第2表。

(注7)『鳥取県勧業沿革』135頁。

(注8)「藺草試作及畳表業」(『鳥取県中央勧業会会報』第4号,鳥取県中央勧業会事務所,1896年)。岩美町誌刊行委員会編『岩美町誌』(岩美町,1968年)1046頁によれば、吉岡の本庄村長在任は1894(明治27)年4月25日~99(明治32)年1月15日。

(注9)資料上の表記は「綾莚会社」。綾莚合資会社については、神立前掲書98~100頁、およびその典拠である蔦川嘉平ほか『綾莚麦稈真田工業全書』(同発行社,1896年)111~118頁を参照。

(注10)この「華莚業恐慌」が意味するところは判然としませんが、この年に限らず、花莚輸出の景況は激しく上下しました。神立前掲書100~103頁などを参照。

(注11)新庄三郎「藺作に就いて」(『実業』第38号,鳥取県中央実業会事務所,1899年)。

(注12)「藺作及製莚に関する調査」(『鳥取県中央勧業会会報』第5号,鳥取県中央勧業会事務所,1897年)。

(表出所)『生産力物価輸出入調査及農事統計表』(鳥取県,1890年)。

(大川篤志)

活動日誌:2011(平成23)年8月

2日
古墳調査報告書に関する協議(鳥取大学、湯村)。
3日
民具調査協議(倉吉博物館、樫村)。
5日
古墳測量協議(県中部総合事務所・倉吉市教育委員会、湯村)。
6日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
8日
古墳地権者交渉(倉吉市見日町、湯村)。
9日
古墳測量地元協議(湯梨浜町、湯村)。
民具調査・共同民俗調査予備調査(日南町・日野町、樫村)。
10日
古墳測量協議(湯梨浜町教育委員会、湯村)。
11日
古墳調査報告書協議に関する協議(県立博物館、湯村)。
12日
資料及び聞き取り調査(湯梨浜町宇野地区公民館、清水)。
ラムサール条約リレーシンポジウム「昔の中海を知ろう」講師(むきばんだ史跡公園、樫村)。
17日
現地調査(倉吉市厳城・向山6号墳、湯村)。
23日
中世史料調査(~25日、筑波大学附属図書館・国立国会図書館・國學院大學図書館・徳川彰考館レファレンスルーム、岡村)。
29日
共同民俗調査(~9月1日、樫村)。

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編集後記

 前回に続き、今回も県史だよりの「最近の活動から」コーナーはお休みさせていただきます。これは編集の都合上のことで、もちろん、県史編さん室は現在も調査などの活動を鋭意行っております。

 実は先日、県立公文書館のホームページ内にブログ形式の「活動日誌」コーナーが開設されました。このなかでは、県史編さん室の活動の様子についても逐次記事をアップしていきますので、是非ご覧ください。

(大川)

  

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